南禅寺禅センター・光雲寺

題字・南禅寺管長倪下
題字は南禅寺管長猊下

南禅寺・禅センターの置かれております門外塔頭の光雲寺の住職として平成十八年 七月末から入寺致しました。

光雲寺は、先住職が退任して 南禅寺派管長猊下が兼務された平成十六年以降、 南禅寺派宗議会の審議を経て「南禅寺・禅センター」としての役割をも仰せ つかっております。

現在は一般在家の方、とりわけ修学旅行の生徒さん達の参加者、なかでも 小学生が圧倒的に多く、中学生・高校生がそれに続きます。しかもたいていは 強制的にではなく、自発的に参加することが多いようです。もちろん一般成人 の方々の参加もあります。光雲寺の由来と坐禅堂として使用している仏殿に ついて述べたあと、坐禅の仕方を説明し、十五分の坐禅を二回してから法話 十五分という一時間のコースです。

確かに現在は「学級崩壊」が叫ばれており、また現場の先生方からも現今の 学校教育の惨状を歎く声を良く聞くのは事実です。しかし、当初はざわついて いた生徒達が、坐禅と法話を経て、次第に真剣味を増してくる様子はみものです。 禅センターでは、たとえ小学生が対象であってもレベルを落して話をしないことを 心がけております。難しい理屈を述べるのではなく、禅体験をもととして話を 進めれば、これまで聞いたこともない話に新鮮な驚きを感じるようです。「釈尊が 禅定に入っておられた際には、目と鼻の先で草を食べていた牛が雷に打たれて頓死 したこともご存知ないほどの深い禅定に入られた」というと、突如として水を 打ったように一同静まりかえります。またわが身の拙い体験談を話して、「私が 出家前に神戸の或る道場で大摂心(一週間の集中的修行期間)に参加したときには、 結跏趺坐の痛みを忘ずるために数息観に熱中するあまり、四日目の午後の茶礼でパン と飲み物が配られた際に、それを手にしたまますべてを忘じてしまい、いつ茶礼が 済んだのかも分からないほどでした」というと、みんな真剣そのものの顔つきで こちらを凝視します。

それにしても、前途洋々たる青少年達を相手に、思う存分に坐禅指導ができる というのは、何という幸せでしょうか。坐禅を仕事にできることの法悦とありがたさ をしみじみと味わっている昨今です。

わが身を顧みても、若年の頃の宗教との関わり合いは、自分の人生を決定的に変える 意義をもつと言い切れます。 どうか一人でも多くの若者がこれを機縁として禅や東洋精神に関心をもって頂きたい ものです。もちろん一般の方々のご参加も悦んでお待ちしております。

南禅寺と同じ御開山(大明国師)

大明国師
南禅寺開山大明国師 無関普門禅師

建暦二年(1212)に信州でお生まれになった国師は、幼時から新潟の叔父、寂円 のもとへ預けられ、十三歳で得度された。諸方で研鑽を積まれたのち、栄西禅師の法嗣の栄朝に参じ、 さらには、宋から帰国して東福寺の開山に迎えられた聖一国師(円爾弁円禅師)の門に入って、五年間 の辛参苦修の日々を送られた。国師はさらに向上の道を求めて、建長三年(1251)、四十歳にして入宋して、 浄慈寺の断橋妙倫禅師に参じた。禅師は一見して国師の抜群の器量を見抜かれたという。国師は浄慈寺で修行すること十年あまりにして、禅師の法を嗣いで帰国された。

帰国後、国師は東福寺の聖一国師に再謁されてから、得度した越後新潟の寺で 聖胎長養しておられたが、聖一国師の病が重篤なることを聞かれた国師は、七十歳の 老躯をいとわず、遠路はるばるお見舞いに上洛された。

国師が上洛されると、衆望は国師に集まり、東福寺の後住を嘱望されたのであるが、 勢力を有していた東山湛照の徒はそれを快く思わなかった。名利など眼中になかった 国師は、すみやかに東福寺を去って摂津(大阪)に退かれたが、このときに開創された のが光雲寺である。その場所は四天王寺の近辺であったと言われている。

時に弘安三年(1280)で、正応四年(1291)の南禅寺の建立に先立つこと十一年であった。 東福寺第二世の東山湛照が在住わずか三ヶ月にして故あって退寺したあとを承けて、 国師は入寂の日まで十一年間を第三世として全うされたのである。 正応四年(1291)に亀山法皇は国師の徳に深く帰依され、その離宮を禅寺として施捨 され、国師を開山第一祖とされた。これが南禅寺の開創である。ただ国師は南禅寺 伽藍の完成を見ることなく、その年の十二月十二日に遷化され、後事を第二世の南院 国師(規菴祖円禅師)に託されたのである。

大明国師と英中禅師

英中禅師
光雲寺は明暦三年(一六五七)に英中玄賢禅師(一六二七~九五)により再興された。

さてその後の光雲寺について言えば、江戸初期の明暦三年(1657)に南禅寺の第百代 住持英中玄賢禅師(1627~95)によって再興され、寛文四年(1664)には、英中禅師に 帰依された後水尾天皇と中宮・東福門院のご助力により、難波から南禅寺の北域の所謂 「北ノ坊」の現在地に光雲寺は移転されたのである。当時は七堂伽藍を具えた堂々たる 寺院として、英中禅師の指導のもと、光雲寺には五十人以上の雲水が切磋琢磨して修行 に励んでいたと伝えられる。

現在の仏殿は当時のもので、すでに三四〇年以上を経て往時をしのぶ偉容を誇っている。目下は本堂と禅堂とを兼ねて使わせて頂いているのであるが、大明国師や英中禅師の如き 高徳の名僧の遺徳と、後水尾天皇と東福門院との菩提心のお蔭によって、このお寺に住山 させて頂いた仏縁を思うとき、身の引きしまる重責を痛感せずにはおられない。

檀家の方々や弟子たちや在家修行者の人たちと共に、ますますこの伝統ある光雲寺を守り立てて行きたいものである。皆様方のご支援ご法愛の程、よろしくお願い申上げます。