坐禅と法話体験

原則として第二、四日曜日を除く午前9時から午後4時の間で都合の良い時間をお知らせ願います。お申し込みはFAX075-950-1010までお願い申し上げます。

坐禅法話研修会会費
お一人様
小・中・高校生500円
大学・一般1000円


坐禅研修50名までは南禅寺禅センター・光雲寺で、それ以上は南禅寺大本山で対応させて頂いております。

御志納金(一団体様)
20人以下21人~49人50人以上
3000円5000円10000円

会費とあわせて志納金を現金にてお支払い願います。

オプション
お一人様
お抹茶(お菓子付)500円
写経体験1000円

15分の坐禅を2回実施いたします。前後に坐禅指導と法話があり所要は1時間と なります。お抹茶は10分、写経は40分前後余計にかかります。


随息観と数息観

南禅寺は禅の臨済宗に属していますが、禅宗ではご存知のように「坐禅」が基本的な 行となっております。それでは、どのように坐禅すればよいのか、坐禅の成果とはどんな ことか、そもそも「禅」とは一体どういうことなのか。そうした疑問をお持ちの方々も おられるかと思いますので、今回はこの問題についていささかお話ししたいと思います。

まず、「禅」とか「仏法」というのは私たちのおおもとの心のことを指しています。 他宗が戒律や教学や念仏などに専念するのに対して、禅宗はそれらが出てきた根本である 仏心をわがものとすることを目指します。そのため禅宗の別名を「仏心宗」と呼びますが、 それはそうした諸法の根源こそが「禅」に他ならないからです。百六十歳まで生きたと 伝えられる沢水禅師という江戸初期の名僧は、その『法語』の中で、 「仏法というのは人々の一心の名である。一心の名であるということを知らないで、 自分は出家ではないから仏法など信じ難いと言ったり、そしり憎んだりすれば、それは取り も直さず自分の一心を嫌い憎むことになるのである。これは大層愚かなことではないか」 と言われていますが、まことにその通りではないでしょうか。

坐禅の仕方については、「調身・調息・調心」ということがよく言われます。 両方の足を反対の股の上にのせて組む結跏趺坐か片方の足をのせる半跏趺坐をして、 手は「法界定印」といって右の手のひらに左の手のひらをのせて親指を合せて円を作る ようにします。そうして背筋を伸ばしておなかを前につき出します。目は開いたままで 少し前のななめ下を見るようにします。よく「どうして目を閉じないのですか」という 質問を受けるのですが、目を開けたままで坐るのは、そうすることによって、坐禅を 離れた動中の生活でも一向に心が乱されないための禅定力を得んがためです。第一、 目を閉じていれば居眠りや色んな雑念が起こり易くなります。さてこれで姿勢は調い ましたが、心が調っていなければ、いくら真面目そうに坐っているようでも、「坐禅」 とは言えません。そこで息を調えることによって心を調える必要があります。その方法 には、随息観と数息観とがあります。

「随息観」とは、ただ自分の呼吸に集中することによって三昧に入る行法で、 お釈迦様の「入出息念定」、つまり出入の息を念ずることによって定に入るという行法は これに当ります。 自分の身体を貫いて頭の上から足の方に向かって大きな円が動いている ようにイメージして、その円の動きに任せ切ってひたすら息を集中していきます。特に出る 息をゆったりと長くして、吸う息は吐いた力でごく自然にするようにします。 よく「一分間に自分は何回しか息をしない」などと自慢する人がありますが、 あまりそのように意識し過ぎると、かえってそれが妨げになって、なかなか無心の三昧境 には入りにくいものです。やはり一番いいのは、「自然でゆったりとした長い息」ということ でしょう。しかし、そうは申しても、随息観ではあまりに取っ掛かりがなくて、やりにくい かも知れません。そこで一般には初心の方々に「数息観」を勧める場合が多いです。

「数息観」とは読んで字のごとく、息を「ひとーつ、ふたーつ、みーつ」と数えて「とーお」 まで来たら、また「ひとーつ、・・・」と繰り返して連綿として息を数えることに専念する行法です。  しかしこれも実際にやってみると色んな雑念が出てきて、なかなか思うような三昧には入れません。 しかし念が起こってもそれを相手にすることなく、ただひたすら「ひとーつ、ふたーつ」と数息観を 続けるより他に手はありません。随息観と比べて「数える」というだけ余計なはからい(意識的努力) をしているので、数息観ではなかなか無心三昧に入りにくいと思われるかも知れませんが、 決してそんなことはありません。ただひたすら「ひとーつ、ふたーつ」と心をこめてやること に努めていると、しまいにはそれが習い性となって、意識せずともひとりでに「ひとーつ、ふたーつ」 とやるようになります。こうなればもうしめたものです。ますます乗って「ひとーつ、・・・」と やっていくだけです。工夫道楽になるくらいに打ち込むことが望ましいのです。

禅宗様仏殿
近世京都を代表する本格的な禅宗様仏殿

臍下丹田に気を充実させる

工夫は何も足を組んでいる間だけのこととは限りません。色んなお仕事をお持ちの方もおられるか と思いますが、歩きながらでも、電車の中でも、暇を見つけては数息観をするように心がけておられれば、 きっと知らず知らずのうちに三昧境が育ってくるはずです。

日本臨済宗中興の白隠禅師の法の上の祖父に当られる至道無難禅師という名僧は、坐に関わらない 四六時中の工夫を、「せぬときの坐禅」と呼んでおられます。それは「足を組まぬ坐禅」と申しても よろしいでしょう。禅宗では古来こうした「動中の工夫」を貴んで、「動中の工夫は静中に勝ること 百千万億倍なり」と言っておりますが、それはひとえに形だけや見かけだけの坐禅よりも、真の工夫 こそが「坐禅」と呼ぶに値するということだと思います。そういうと、「そんな真剣な工夫などは 在家のわれわれにはとてもできぬ」と言われるかも知れません。しかしだまされたと思ってひとつ 真剣に数息観をされれば、きっと思いもかけない法悦が得られることうけ合いです。

工夫が純熟すると、 坐禅をしても足の痛みが苦にならなくなります。三昧の悦びがそれに勝るからです。「坐禅は安楽の 法門」と言いますが、まさにその通りです。ただ大切なことを申しそえるとすれば、古人が言われる ように、「臍下丹田(せいかたんでん)に気を充実させる」ことが必要です。このおへその下の丹田に 気を充実させてゆったりとした呼吸をすることによって、あるものがそのままで空ぜられる心境が育 ってきます。さきほどは「動中の工夫」の重要性について申し上げましたが、それだからといって、 坐禅によって一番定力が練れるのもやはり事実です。よく「坐禅三昧」などと申しますが、文字通り 寸暇を惜しんで坐禅することがなければ、専門の修行者といえどもなかなか真空無相の境地には達する ことは到底できないものです。

在家の皆さん方も、動中の工夫に励みながら、もし時間があれば少し でも坐禅に心がけるようにされれば、心の底から法悦の醍醐味を味わえることでしょう。皆さん方が 少しでも悩みのない充実した人生を送られることを願ってやみません。

合掌。